B.家康のまちづくり 物語リスト
B1.秀吉の一言で動いた家康
 信長なき後、大阪の秀吉と東海の家康は一時、対峙したが和睦し、形の上では家康が秀吉の傘下に入った。しかし、秀吉としては家康を東海から北へ移したかったのでその口実とタイミングを考えていた。徳川家の家臣による『関八州古戦録』から、司馬遼太郎が引用したところによると、関東一円の大勢力であった北条氏を家康と共に小田原に攻め、最終的に小田原城を包囲したとき、秀吉は落城寸前の小田原城を見下ろす高台に家康をさそい、ゆったりと立小便した。
 「家康主(ぬし)モいざ小便ヲめされヨ」といい、放尿しつつ、もはやあの城も落ちます、「左(さ)アラバ、関八州ハ貴客ニ進(まい)ラスベシ」と言った。
 逃げようのない動作の中で、不意をつくような呼びかけに家康は困った。ぐずぐずした返事をすれば、現在の領国に固執していると読まれ謀反の疑いをかけられる。どう応えたかはどの伝承にもないが、家康のその後の行動はすばやく、自分の陣営に戻ると早速、家臣に先祖伝来の領国を引き払うよう命じたらしい。その時、秀吉は「居所ハ、江戸城然ルベシ」とアドバイスしたそうだが、これは大阪を商業港として繁栄させた秀吉の自信と家康への素朴な親切心であった。この秀吉の一言で家康は江戸に住むことになり、世界の東京が生まれることになった。

 関ヶ原の戦いの10年前、天正18年(1590)8月1日、家康は江戸城に入る。当時の江戸は東京湾の一部である日比谷入り江に面した小さな城と周辺に散在するいくつかの集落だけであった。
江戸城の東はほとんど湿地帯であり、西側の高台は武蔵野の野原であった。家康はまず城の西の丸を拡張整備しながら、塩と水の確保のための運河や水道造りを命じる。


■左図 日比谷入江、於玉ヶ池、千束池、白鳥池がまだある。     ■道三堀と小名木川を掘り塩を運ぶ
 平川を東側に付け替え氾濫を抑える。


■日比谷入江の埋立てと外堀開削                    ■神田山を東西に掘削し、神田川として隅田川に直結
B2. 塩運搬用の運河をつくり、山を切り通し、大都市のための水道を敷設
 徳川の家臣達は、関東なら小田原か鎌倉しか首都に適する場所はないと考えていたらしい。しかし、家康は秀吉の助言を素直に受け入れたのか、あるいは本人も江戸の立地の将来性を見抜いていたのか、てきぱきと居城づくりとまちづくりを始めた。と言っても並大抵の努力ではない。当時の江戸は武蔵野台地の末端にあり、幾筋もの小河川が凸凹と谷をつくり平地も少なく、江戸城から東は、ほとんど沼地と湿地帯で雨が降れば水浸しの低地が広がっていた。とても百万の人口が抱えられるとは想像できない土地柄を家康は根気よく手を入れ、まちづくりを行った。まず平川(平河)の流れを整理し、支流を城の堀とし、低地での氾濫を止め、神田川の上流を飲料用の上水として江戸の水道を整備した。後に神田川は本郷台地から神田山と続く部分を開削して隅田川に直結するように大土木工事を伊達政宗に命じて実施する。さらに千葉の行徳から塩を運ぶために小名木川の運河を整備。東の低地に運河を掘り、その土で湿地をかさ上げして市街地を造成した。
 御茶ノ水から水道橋にかけての神田川の深い谷は全くの人工的な崖であるが、月日とともに緑に覆われ、茗渓と呼ばれる江戸の名所となった。ここを境として緩やかに南に下る台地には家康が晩年、駿河城で暮らしたとき側にいた旗本衆が家康の死後、江戸に移住し、住まいを定めたので駿河衆の台地、駿河台と呼ばれた。大久保彦左衛門忠敬もその一人で、現在の杏雲堂病院の場所当たりに住んでいたらしい。神田川の人工渓谷は江戸の名所となり、特に後楽園側から来る神田上水がここを渡るときの屋根付き木橋は上水懸樋と呼ばれ多くの絵師たちが名所として描いた。

■歌川広重 画  東都名所 御茶之水之図 天保3-5年(1832-4)  中央の屋根付き橋は神田上水の水道の懸樋

■御茶ノ水駅前近くの神田川と「茗溪」
B3.明暦の大火と都市改造
 それは、江戸城下町の骨格が寛永年間(1624〜1636)にほぼ完成し、いよいよ本格的に市街地が発展拡大していく矢先の出来事であった。明暦3(1675)年1月18日、午後2時(未の刻)頃、本郷丸山の本妙寺から出火したと言われる火は、折からの強い北西の風にあおられて、本郷から湯島一帯をみるみるうちに焼き尽くし東南の方角へ延びていき、ついには隅田川を越えて深川や牛島新田にも達した。続く翌19日午前10時頃、小石川伝通院表門下の新鷹匠町にある大番与力の屋敷から出火し、北風にあおられ、神田一帯を焼き払い、江戸城にまで延焼した。さらにその日の午後4時頃、麹町の町屋から火の手があがり溜池、外桜田方面に延び増上寺の一部を焼いて海岸で鎮火した。
 通称「振袖火事」と呼ばれ、庶民の間では不思議で悲しい恋物語を伴う悲劇として有名なこの大火は幕府の直面していた大都市問題解決に絶好のタイミングで起こった。江戸の北から西にかけて3つの地点からの出火は、北西の風という、まさに対角線上に当時高密度に発展形成された江戸の市街地のかなりの部分をなめつくすように延びていったと思われる。結果的に市街地の約6割を焼失し、10万人以上の焼死者を出した。
 しかし、この大惨事は、その後江戸がさらに大きく成長発展する見事な契機となっている。大火後、幕府は矢継ぎ早に新しい町づくりの施策を次々と実行していく。郭内に密集していた大名屋敷や寺院を郊外に移転させ、火災の延焼をくい止めるための空地である火除地を主要な場所に設けるなど、防災を第一にした都市改造を行った。そしてこの明暦の大火は、実は当時、都市政策で行き詰まっていた幕府首脳部が大規模な都市改造によりそれを打開するための準備策として密かに図った陰謀ではないかという説がある。
 家康入城後、80年以上たって江戸は名実ともに京都をしのぐ天下一の大都市になっていたが、江戸の繁栄は武家の繁栄であり、町衆文化の繁栄はなく、軍事的な都市としての要素も量的には詰まっていても都市構造としては不備もあり、そもそも将来的な都市の繁栄を担う人々を安全に収容する場所やゆとりのないことを首脳陣は憂えていたと思われる。しかし都市の中心部を占拠しているのは譜代の大名や歴史のある古刹等、強力に既得権を主張するであろう人々であるから都市改造のための移転の交渉には膨大な補償費やら困難な説得が前提となり、幕府の首脳陣にとって頭の痛い問題であったと思われる。ところが一方その中心にいたのは通称「ちえ伊豆」と呼ばれた知恵者・松平伊豆守信綱であったことがこうした陰謀説となる憶測を生んだのかもしれないが、江戸城まで炎上するような危険なかけをする必要があったのかどうかという疑問もある。
 しかし、この説が全くあり得ないとも言い切れないと思われるエピソードが火元の当事者である本妙寺みずからによって350年振りに語られている。それは最初の火元とされている本妙寺が実は本当の火元である老中・阿部忠秋邸の身代わりをしていたという事実であり、寺に伝えられた真相を何代か前の住職の打ち明け話とともに検証し公表している。この件をさらに追求していくと都市改造のためのきっかけづくりという無謀な権力者の決断があったのかも知れないと想像してしまう。当時の江戸は火事が多く、人々は避難になれており、焼死者は少ない筈だと当局者は思っていたかもしれない。そんなことはあり得ないとしても、少なくともその後の都市改造による江戸の拡大発展を見ると老中・阿部忠秋の失態は結果オーライと仲間内では言われた可能性はある。本来であれば失火元の本妙寺は厳重処罰の対象であり、移転させられたり、降格されたりして当然のはずが、一切お咎めなしの上、他の寺が強制移転させられているにもかかわらずその場所で復興を許され、さらに後に「触頭(ふれがしら)」と呼ばれる代表幹事のような役目の寺に昇格させられている。最も象徴的なことは大火の翌年から老中阿部忠秋から供養料として15表の米が幕末まで届けられていることである。本来犠牲者に対する供養であれば幕府が建てた回向院であるはずであるのに火元である本妙寺に届けられるのには何か特別の事情があると思わざるを得ない。

■明暦の大火は当時行き詰まっていた江戸の都市構造を一変させた。既成市街地の6割を焼失し、約10万人の焼死者を出したが、それを期に新たな都市計画により、大名地、寺社地等を郊外に移転させ、火除地や町人地を増やし大いに発展する。吉原も浅草裏へ移された。大火後13年の漢文0年の江戸の地図の上に明暦大火の状況を重ねてみた。
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