C.湧き立つ学校 物語リスト
C1.配電盤としての本郷
 「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と司馬さんは述べる。その“文明”の一大機関である東京には、機関の心臓部であるたった一つ「大学令」による大学、すなわち東京大学が本郷にあった。つまり本郷は当時の日本の配電装置の役割を果たしていたことになる。欧州で評判になるほどの高額な報酬で“お雇い”外国人教師を招き、本郷に住まわせ、日本中から集めた優秀な人材を短期間集中的に教育させたことにより日本の急速な近代化は一応成功した。漱石の『三四郎』はこの東京の配電盤を巡る若者の物語として読まなければおもしろくないと司馬さんは語る。では、なぜ本郷が配電盤の設置場所に選ばれたのだろうか。一つには、高台で自然環境にも恵まれた広い敷地、すなわち前田邸跡地があったからであり、もう一つは近くに江戸期からの学問の拠点である湯島の聖堂があったからではなかろうか。
 一方で藩士の学校、例えば福山藩(広島県)が文政3年(
1820)文武場を設け後に「誠之館」と呼び幕末まで続き、明治になって誠之小学校となり現在に至るという例もある。坊さんが学ぶ栴檀林は伝通院と吉祥寺に設けられ、吉祥寺の栴檀林は300年程前に設けられ、後の駒沢大学となる。庶民が学ぶ寺子屋と私塾は文化・文政の頃から明治初年の頃までに約50ほどの寺子屋や塾が出来ている。こうした積み重ねが文教の街・本郷を形成してきたといえる。

■聖橋の上から見た湯島聖堂の塀と森

C2. 武士が武士になるための学問を教えた湯島の聖堂
 前田利家が晩年、学問をするようになり、甥のように可愛がっていた加藤清正に言葉を贈る。それは曾子(そうし・孔子の弟子)が門弟に語った言葉の引用であった。

以テ六尺(リクセキ)之孤ヲ託スベク、以テ百里之命ヲ寄スベク、大節ニ臨ンデ奪フベカラズ。君子人カ、君子人ナリ。

 これは孔子が、士がそうあるべき理想的人格としての君子とは何かについて語っているものらしいが、友人などが死にあたって、その遺児をあずけるに足るような人格、そして百里四方、つまり国家の政治をまかせるに足る人格、大節(非常の場合)に臨んでも他人から強要されて志を奪われることがない人格、を持つべきだとしている。最後の一句、「君子人カ、君子人ナリ」が古来、名文とされ、解釈がいろいろとあるが、司馬遼太郎は古釈とは別にこういう意味を含むと説明している。

「君子は本来ただの人かもしれないが、しかし学問によって倫理的に自分をつくりあげてきた。うまれは常人であっても学問によって常人でなくなっている。だからお前たちも励め」

 清正も後に論語を読むようになり、利家の言葉を理解するようになったようだ。やがてくる江戸時代の学問の本質が、この利家や清正の言葉の中にあり、武士が武士になるための工夫の道こそ江戸期の儒学だと司馬さんは述べている。
 利家らが講師として招いた藤原惺窩(せいか)は家康にもたのまれるがあえて弟子の林羅山を紹介する。家康は自分はあまり学ぶことはせず、秀忠に学ばせ、林羅山を将軍の侍講とした。三代家光になって林羅山は重く用いられるようになり、今の上野公園の西郷さんの銅像付近に私塾としての学問所を開かせてもらう。大学頭(だいがくのかみ)を世襲する林家の代々の当主はあくまで将軍の侍講であり、幕臣や旗本・御家人の教育を担当していたわけではない。徳川家は各諸藩が勝手に藩校や私塾に通うことを放任していた。その後、五代綱吉は、林家に湯島の地に六千余坪を下賜して孔子廟を建てた。林家は上野忍岡から移転し、家塾を拡大し学寮を興した。私塾から半公半私の塾となり、さらに十一代家斉の寛政二年(
1790)に昌平坂学問所、いわゆる、昌平黌(しょうへいこう)という官学の施設となる。現在は財団法人斯文会が運営し、論語などの公開講座を開いている。この湯島台の聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商が栄えたといえる。


■孔子像                     

■杏壇(きょうだん)門から奥の大成殿を見る       ■大成殿の両脇に続く回廊

■聖人の徳に感じて現れる義獣たち            ■鬼龍子

■冬の楷樹                         ■秋の楷樹
この楷樹(かいじゅ)は樹齢80年。孔子の墓に弟子の子貢が植えた楷樹は通称「孔子木」と呼ばれる。

C3. 神田に湧き立つ私塾と学校
 江戸の人口、百万のうち半数近くが武士か武家奉公人とその家族であった。彼らは江戸城を取り巻く地区に住まわされ、特に神田を中心とするエリアには多くの武士の家族が住んでいた。彼らの子弟は武芸と学問を学ぶため神田界隈に集中した私塾に通った。有名なのは北辰一刀流・千葉周作の於玉ケ池の道場・玄武館。俎(まないた)橋(現在の神田神保町三丁目から九段北一丁目)に神道無念流・斉藤弥九郎の開いた練兵館。千葉周作の道場の隣には儒者・東條一堂が瑶池塾を開いていた。後に東條死後、千葉道場がその塾を引き継いだ。於玉ケ池は以後、姿を消すが現在の千桜小学校がそのあたりだとされる。そのほか信州松代の佐久間象山もこの於玉ケ池周辺に玉池書院という塾を開いた。また幕末第一等の詩人とされる梁川星巖も玉池吟社をこの地に起こしている。
 

 ペリー来航以後、国防に必死になった幕府は講武所、すなわち武芸の修練所を江戸のあちこちにつくろうとしたが財政難のため、結果的に築地に洋式のものができ、神田小川町に古来の剣術や槍術、柔術を訓練する講武所ができあがった。さらに神田には幕府の蕃書調所ができ、やがて開成所、つまり東京大学の前身となる。現在この場所には学士会館が建っている。於玉ヶ池にできた種痘所が発展して西洋医学所になったものも開成所と統合される。そのほかたくさんの私塾が神田地区に群がり興り、明治5年にはその数60もあったという。

 夏目漱石は牛込馬場下横町に生まれ、地元の市ヶ谷小学校を卒業したにもかかわらず、神田猿楽町の金華小学校に再入学している。卒業して府立一中(のちの日比谷高校)に入るが2年で中退、二松学舎という私塾に2年通う。さらに英語を学ぶため再び神田に戻り、英語塾・成立学舎に入学する。そして18歳の時に一ツ橋にあった大学予備門(のちの第一高等学校)に合格。猿楽町に下宿しながら通学し、この予備門で正岡子規と出会う。子規は松山から上京し、神田淡路町にあった共立学校で英語を学び、予備門に入学する。共立学校(現在日暮里にある開成高校)は高橋是清が若い頃渡米し、帰国後、仲間たちと共に造った英語学校である。共立とは仲間立という意味で、英国の私立学校、パブリックスクールの対訳であるらしい。後の大蔵大臣、日銀副総裁である高橋是清が子規の英語の先生であったわけである。神田錦町には共立女子職業学校(後の共立女子大)というのもできる。子規の妹・律は兄が死んで後、ここに入学する。子規に付きっきりで看病した律に対して病気の苦しみでイライラした子規は勝手なことを言っている。新聞を読ませても読めないとか、話をしたくても話題がないとか。だから女子にも教育が必要だと。律もそのことを覚えていたに違いない。
 漱石の『坊ちゃん』の主人公は、物理学校の前を通りかかった際に、生徒募集の広告を一目見て、何かの縁だとしてすぐ入学の手続きをする。この東京物理学校(後の東京理科大学)は漱石が猿楽町に下宿していた頃、小川町の仏文会の校舎に間借りしていた。この学校も仲間立、つまり共立で東京大学理学部が後援し、同学出身の若い理学士が官職につきながら手弁当で教鞭をとった。昼間は勤務があるため学校は夜間授業であり、高価な実験用具は、一ツ橋の東京大学校舎から夜毎運ばれたという。こうして神田にはありとあらゆる学問、実学、教養などの学塾が集中するところとなった。医学の分野では、私学はなかなかできにくかったが長谷川泰という変わり者が大変な努力をして済生学舎(後の日本医科大学)という予備校を始め、ここに吉岡弥生という努力家が入学し勉強する。三年後、二十二歳で医術開業試験に合格し、本郷東片町に医院を開業する。後に彼女は東京女子医学校を開校し現在の東京女子医大となる。


■於玉ヶ池の千葉周作や東條一堂の道場のあった辺りにある千桜(ちざくら)小学校(写真右手)は現在解体中。司馬さんが見た玄関脇の「右文尚武」の石碑はどうなったか。

■錦華(金華)小学校(現御茶ノ水小学校)校庭前にある漱石の碑

■学士会館 右端のアーチ状入口の前に東京大学発祥の地という記念碑が置かれている

■学士会館の前にある共立女子学園 正岡子規の妹・律がここに通い、後に裁縫の先生となる。

■学士会館の北側にある野球発祥の地記念碑 野球という言葉は子規が命名した。この辺りで子規は野球に熱中したことがあったろう。そしてどこからか妹・律や親友夏目漱石がそれを見ていたことがあったろうか。

C4.国宝に値する神田古書街と三人の茂雄

 学問、文化とくれば本は欠かせない要素である。神田神保町の古書街はそのまま生きた文化財的と言える。惜しいことに街並みはどんどん変わっていくが、いまなお貴重な古書はこの界隈で見つけられるようだ。
 さて、三人の茂雄とは司馬さんが熱く語る本屋さんで、岡茂雄、岩波茂雄、反町茂雄の三人である。岩波茂雄はもちろん岩波書店を興した人である。彼が第一高等学校に在学していた頃、一年下の藤村操という学生が明治36年(1903)の五月、16歳で日光華厳の滝に飛び込み自殺するという事件に遭遇している。藤村は現場に文語文で書かれた「巖頭之感」と題する遺書を残したが、青春の檄文のように若者たちの間で語られた。宇宙の真理とは何か、一言で言えば不可解。自分は不可解といううらみを抱いて死を決したという、純粋に形而上的な理由で自殺している。岩波はその悲痛さの強烈な同調者で「時代が皆そうだった」と書いているが、同級生で終世の友人である安部能成はクールに時代が皆そうだったとはいえないと述べている。つまり当時の「一高」という選ばれた若者の集まりの中ではそうかもしれないが、世間一般はそんなことはなかったということである。「坂の上の雲」を書いた司馬さんも明治三十年頃の兵士たちの日記などをたくさん読んだが、観念的な厭世主義のようなものは見当たらなかったと言う。しかし岩波茂雄が世間一般も皆そうであったと思い込み、その主観的な見方を出版業においても貫き通したことが結果的に事業を成功させることになる。藤村の自殺事件の後、岩波は信州野尻湖の孤島にこもってしまう。二年続けて学校を落第し退学になるが、やがて帝国大学哲学科選科に入り、三年後卒業する。卒業後、神田高等女学校の教師として四年間あまりにも熱心に働きすぎ疲れたらしく、出入りの古本屋に相談して店を持つことにする。岩波茂雄は容貌魁偉で行動もやや突飛であったようだ。夏目漱石が「こころ」を新聞に連載していた頃、漱石の作品はほとんどが春陽堂か大倉書店と決まっていたところを岩波がぜひ「こころ」は私に出版させて下さいと申し込む。漱石はおそらく弟子の安部能成などから聞いていたのか、その人柄に興味をもって、いいよと言ったらしい。ところが岩波は開店したばかりのそれも古本屋で、しかも資金もなかった。結局出版費用も漱石から借りることなる。一途に悲壮的に思い込み、情熱的な行動で突っ走る容貌魁偉な巨人が岩波茂雄である。

 それとはやや対照的にひかえめな紳士でありながら、柳田国男に不本意にも「本屋風情」と軽く見られ、しかしかっこよく生きた本屋さんが岡茂雄である。在野の趣味的な学問である民俗学が市民権を得たのは、その創始者、柳田国男が貴族院書記官長までつとめた高級官僚であったからとも言える。その民俗学(民族学)あるいは文化人類学の勃興期に、その新しい学問のために出版業を始めたのが岡茂雄である。人類学の学術出版をする岡書院とアルピニストのための梓書房という小出版社を興し、十数年間だけ活動して事業を閉じた。その間、民俗学の巨人、南方熊楠などを紹介し貴重な文献を残している。一般にはほとんど知られない本や作家を世に紹介し、それらの価値を実際の形にして残すという心意気だけの仕事を続け、後世のために役立っている。その人についてもっと知りたいと司馬さんは思い、出版関係者にたずね、朝日新聞の記者で後に都市問題等で活躍された岡並木さんがご子息であることを知る。
 最後の茂雄は古書業のプロ・反町茂雄である。いつの時代にも転換期と呼ばれる時期には、貴重な文献や本が古本市場に出回る。世の中の価値観が大きく変わり、それまで大切にされていたものが一挙に放出されたり、社会体制の変化で貴重な蔵書を手放さざるを得ない高貴な人々が登場したりする。そうした貴重な掘り出し物をきちんと評価し、それを商売として成立させる鋭い目を持った人が反町茂雄で、残念ながら
1991年に90歳で亡くなられている。司馬さんは反町さんが国宝級の書物に出会い、それを鑑定し、取引する様子を感動的に述べている。

 いずれの茂雄さんも神田神保町辺りを仕事場として活躍したわけで、おそらく日本の書物文化の本当に価値あるものは実際にはこうした裏方さんにより、確実に継承されていくのであろう。神田神保町はこうした貴重な人々の棲息空間だとするとより一層大切に保存されるべきだという気がする。
 ついでにもう一人、変わった英雄が神保町を評価していた。漱石門下で白系ロシア人のセルゲイ・G.エリセーエフである。欧米における日本学の草分けで後にハーバードの先生にもなりライシャワーなどを教えた。彼は日本本土への爆撃が始まったとき、マッカーサー将軍に進言して神田の神保町を爆撃目標から除外するように忠告したと言われている。

■三人の茂雄さんたちが時代が異なっても、この辺を何度も行き交っていたのであろう。

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