D.気になる風景 物語リスト

D1.団子坂と藪下の通り
 明治の多くの文豪たちは本郷界隈に住んでいたと同時に彼らの作品の中に舞台として登場させている。
 本郷台地の南北の尾根線に本郷通りが走り、これに直交する道路は必ず坂道になる。江戸から明治にかけて数々の話題を提供する坂道は団子坂である。坂の途中に鴎外が住んでいた観朝楼があって現在は鴎外記念図書館になっている。その脇の道は崖に沿って根津神社の裏門まで続く通称・藪下の通りである。

 おそらく江戸から明治にかけては、この藪下の道から東京湾が十分見えたであろう。現在でも観潮楼前の小さな公園にある滑り台に上ると、かすかに海が見えるような気がする。団子坂からも当然海が見えたわけで、以前は潮見坂と呼ばれていたらしい。団子坂になったのは団子を売る店があったからだとか、転ぶと団子のように転がるからだとか言われている。
 江戸時代から団子坂は菊人形の名所で明治の頃も賑わっていたようだ。漱石の『三四郎』の中にも美禰子が三四郎と菊人形を見に行った時の様子が出てくる。団子坂は迷子が出るくらいの雑踏で、その混雑に気分を悪くした美禰子が三四郎を人気のないこみちにさそい入れる場面がある。鴎外はこの部分の描写について自分の小品である『団子坂』の中に登場する男女の二人の学生に語らせている。団子坂を歩いている時に坂下の橋のところで男子学生が「三四郎が何とかという、綺麗なお嬢さんと此処から曲がったのです」という。鴎外と漱石は生前二度しか会っていないらしい。このあたりの二人の微妙な関係や小説の内容についての分析を司馬さんは『本郷界隈』の中で楽しそうに語っている。
 さて漱石自身は藪下の通りの南端にある根津裏門坂の通りを西へ上がった所にある郁文館中学の隣に住んでいたことがある。英国留学から帰って直後、漱石はその家を借りた。偶然にも鴎外がその13年ほど前に同じ家を借りていた。鴎外はその家を「千朶山房」と呼んでいたが2年後には観潮楼を建て、そこへ越した。鴎外は「千朶山房」に住む2年前にドイツから帰国し、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のいわゆるドイツ三部作を発表する。この三部作に漱石が感激し、これを評価しなかった子規とそのことで喧嘩をしたという。ちょうどその頃子規は炭団坂の常盤会の寄宿舎、つまり逍遥の「はるのや」の跡に住んでおり、その下の菊坂には一葉が越してきていた。その後、一葉は続けざまに傑作を世に出すやいなや病に倒れ、この世を去り、続いて子規も後を追い、残った漱石はロンドンに留学する。帰国後、この千駄木の家を借り、漱石はここで最初の小説『吾輩は猫である』を書いた。この間わずか十数年、文豪たちを取巻くエピソードや出来事はすべて本郷台地の上の半径1kmの範囲で起きている。
 漱石の『猫』の主人公・苦沙弥先生の家の庭にボールが飛び込んできて、それを追いかけて突然、生徒が闖入するということがしょっちゅうあり、そのたびに先生はどなる。これは漱石自身の家で実際にあったことのようだ。この通称「猫の家」は現在、明治村に移築されている。


■観潮楼前の小公園から東京湾方面を眺める。手前は汐見小学校の屋上。右の写真は藪下の道。

■犬山市の明治村に移築保存された「猫の家」。明治23年から鴎外が1年余り住み、明治36年からは漱石が3年くらい住んだ。漱石の「猫」の話はこの家にいるときのもの。

D2. 真砂町と炭団坂
 江戸時代には大きな大名屋敷により占拠されていた本郷は、明治になり大学ができたことで一変する。帝国大学の教授たちが住む高級借家、職員や学生のための寮、下宿などが一挙にでき、専門書店、医療器具店をはじめ一般商店も増え、活気ある街並みができあがった。明治の文豪たちも若き日々をその街の中で暮らし、知らず知らずのうちに互いにすれ違っていたこともあったであろう。例えば、日本の演劇学の父と呼ばれ、早稲田の文学部、特に、演劇学研究の学祖とも言われる坪内逍遥は、明治16年開成学校(東大の前身)を卒業と同時に東京専門学校(早稲田大学)の講師となるが、逍遥の人柄にほれた銀行家、永富謙八により翌明治17年(1884)本郷真砂町18番地に寄宿学校兼住宅のような家を建ててもらう。炭団坂の西側台地にあるこの家に逍遥は「はるのや(春廼舎)」というのどかな名前をつけた。しかし、三年後逍遥はここを出て、近くの借家に住むことになる。残った寄宿舎は旧松山藩主久松家の育英組織である常磐会が買取り、旧藩出身の書生のための寄宿舎とした。そこへ正岡子規が入る。逍遥の出た翌年の明治21年、子規21歳の時である。翌年、常磐会の機関紙「真砂集」に「家々の梅園を見下ろし いと好きなながめなり」と前書きして

   梅が香をまとめてをくれ窓の風

という句を載せている。第一高等中学校(旧大学予備門)本科に進んだ年で、初めて喀血した年でもある。
 逍遥はこの春のやにいた三年間に『小説神髄』、『当世書生気質』を書き、そこへ訪ねてきた二葉亭四迷に言文一致の小説を書くように勧め、四迷はその通り『浮雲』を書いた。日本の近代文学はこの家のまわりから始まったと言える。子規がここに住むようになり寄宿生の間に俳句熱が広まる。子規はグループを作って古俳句を収集、分類し研究した。与謝蕪村もこのような中で再発見された。子規に就学の便宜をあたえ、彼の感受性をはぐくんだのは伊予松山であり藩主の久松家である。家康の生母、於大が再婚して嫁いだ先が久松家であり、後に松平姓を名乗る。江戸初期に久松・松平家は伊勢桑名から伊予松山に入封したが、その際、俳諧好きの藩主が御用商人の中に貞門派の俳人を同行させたのがその後の俳句熱のきっかけらしい。子規の後も高浜虚子、河東碧梧桐などが出ている。


■左端のビルが春のや跡。坪内逍遥や正岡子規がいた頃は、眼下に本郷菊坂エリアを一望し、眺めが良かったであろう。階段状の炭団坂を降りて少し行くと菊坂へ出る


 春のやの前の炭団坂を降りて菊坂に出る手前の路地を左へまがり細い路地へ入ると、なんと樋口一葉の暮らした家の前に出る。子規より五つ若い一葉は東京に生まれ、住まいを転々として明治23年(1890)に、この路地裏に引っ越してきて3年ほどここで暮らす。この間、崖の上の寄宿舎には子規が住んでおり、彼は炭団坂を降りて菊坂を右に曲がり学校へ通っていたはずである。何かの時にすれ違っていたかも知れない。漱石も何度か子規を訪ねて崖の上の寄宿舎に来ているわけだが一葉が崖下に住んでいたことは知らなかった。一葉はここを出た数年後、明治28年、『たけくらべ』や『にごりえ』を発表する。翌年、鴎外と露伴は雑誌「めさまし草」の誌上でこれらの作品を絶賛するが、この年の11月、一葉は結核で他界する。一葉の父は山梨の農民だったが借金をして八丁堀の同心の株を買う。士族となった父は明治になると東京府の役人となり、警視庁に勤める。上司に漱石の父、夏目直克がいた。よく働く一葉の父を夏目直克は調法し借金の相談にもよくのっていたらしい。そのうち夏目家の中で長男、つまり漱石の兄、夏目大一の嫁に樋口家の才媛、おなつさん(一葉)はどうだろうかという話がもちあがったらしいが話は立ち消えになった。その後一葉の父は警視庁を退職し事業を興そうとするが失敗、破産し、ついには病死する。18歳の一葉は全てを背負い、途方にくれつつ、本郷菊坂に越してくる。必死で生計をたて、小説を書き、成功しかけた矢先に病没する。あっという間の一生である。彼女の22歳のときの日記にこのあたりの地形のことが一行で描かれている。
     「我が家は、細道一つ隔て上通りの商人どもが勝手とむかい合居たり」
 上通りとは菊坂の通りのことでそこに並ぶ商店の勝手口となるおしりの部分と向かい合った家であるということであろう。
 今、炭団坂の崖の上に立って菊坂の谷の方を見ると、ほかの東京の地区とは異なり思いのほか空が広い。左手には春のや跡に建つビルがあり、右手には今まさに新しいマンションが建てられようとしている。それでも視界はそれほど遮られることなく、民家の屋根を望みみることができる。これらの屋根の下に、かつて若き日の詩人や文豪たちが、ある者は溌剌と新時代を描き、ある者は貧乏のどん底にありながら鮮烈な女の生き様を語り、ある者は死に至る病の中で溢れ出る美しき詩を口ずさんでいた。実際の年月としてはほんの短な時間のうちに彼らがこの界隈を歩き回っていたことが実に不思議に思える。
 この炭団坂を南に春日通に向かう途中に諸井邸がある。秩父セメントを創設した諸井恒平氏が明治39年に建てた木造住宅がほとんどそのままの状態で現存し、今も後継者により住み続けられている。恒平氏のご子息で作曲家の諸井三郎さん、お孫さんの諸井虔さんもこの家で育ったのだろう。現在北と西に残る煉瓦塀は恒平氏が勤めた日本煉瓦製造が明治39年に作ったものである。

 この通りの一本西側には右京山と呼ばれる本郷台地の西側の崖地があり、大正時代に住宅地が開発された。東京市営真砂町住宅でオレンジ色のフランス瓦を使ったり、マンサード型の屋根をもち、中流階級を対象としたモダンな住宅地が出現した。現在もその名残をとどめる住宅が一部残っている。近代日本の中流社会が確実にこの地域に広がりつつあった。

 
■諸井邸 写真右端の煉瓦塀は日本煉瓦製造によるもの

■「真砂町夕景」 山高 登画 木版画家山高さんの描いた昔のサラリーマン憧れのマンサード型屋根の住宅はまだ健在

■真砂町住宅第3期 階段を上ると玄関というアプローチは当時相当モダンな感覚であったろう。

D3.中世の江戸から現代の東京まで静かに見守ってきた樹齢600年の楠木

 春日通りを隔てて真砂町の南にあるのが、かつて弓町と呼ばれ、明治の文化人や事業家たちが住んだ住宅地である。その中心に樹齢600年と言われる楠の大木がある。ここは江戸の旗本・甲斐庄喜右衛門の屋敷跡であり、楠正成の後裔である甲斐庄氏の先祖が江戸初期にここに屋敷をもらった時にはすでに樹齢200年以上であったろうから、家の人々は代々この楠木を先祖楠正成の偉大さと重ね合わせて眺めていたのではないだろうか。明治になってこの土地を引き継いだのは駒沢銀行頭取、駒沢傳吉氏で当時豪壮なる西洋館と言われた木造住宅を建てた。昭和になり中山氏の所有になり、その後進駐軍やウルグアイ大使館などに使われたりし、フランス料理のレストラン楠亭も開かれていたが最近、近代ビルに建替えられた。この間、楠だけは立派に残り大切に守られている。昭和32年に講道館の屋上付近から撮った写真には周辺の家々の屋根をはるかに越えるこの楠の雄姿がうかがえる。現在はビルの谷間にひっそりと隠れているが、近くに行くとさすがに立派である。

■樹齢600年の楠 左にレストラン

■講道館屋上付近より弓町方面を眺める(昭和32年) 右の上に民家の屋根から飛び出した楠亭の楠が見える。その左に弓町教会。地下鉄丸の内線のトンネルの左の建物は錦秋学園。(文京区教育委員会「文京・まち再発見」より)

■「博士のまち」弓町の楠亭の斜め向かいある旧古市邸。古市公威は工科大学(東大工学部)初代学長。現在の所有者によりビルの裏側に大切に保存されている。

■山高 登 画  昭和60年の鐙坂の家 左奥に見える菊坂の銭湯の煙突とともに今も健在である。 

D4.江戸っ子のシンボル・神田明神

 江戸の頃、あるいはそれ以前から本郷台地における絶好の眺望点は、神田明神と湯島天神の境内であったろう。広重の浮世絵にもその眺めが描かれている。
 平将門を祭神とする神田明神は江戸開府以前、神田橋御門近くの柴崎村に将門塚とともにあった。江戸城拡張に伴い駿河台を経て湯島台の現在の場所に移された。江戸城の鬼門にあり、江戸の産土神として幕府の尊崇を受けた。将門は桓武天皇から数えて七、八代目に当たるらしいが家系は関東における在地土豪だった。土着勢力の中で頭角をあらわし、互いに争ううちに、常陸の国府を焼き討ちしてしまう。その勢いで関八州をなで斬りにし独立王国のようなものを造り「新皇」と呼ばれた。変革の意図などはもとよりなかったようだが戦っているうちに朝敵になってしまったと言える。朝廷は征夷大将軍を派遣するがそれ以前に将門の宿敵だった平貞盛や藤原秀郷といった在郷勢力によって討たれ二年で王国は滅ぶ。最後は四千人の敵に対して数百人の手勢で立ち向かい、その先頭に立って戦って斃れた。940年のことである。世界にもまれなその時代の実録の戦記『将門記』には自ら戦い自ら死んだ将軍は天下にいまだないと記され、将門の勇猛さが称えられており、いかにも威勢のいい江戸っ子好みの大将であったことがわかる。神田明神の祭は、京の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本の三大祭となっているが、やはり勢いのよさが特徴で数百の神輿が町中を回った後、いっせいに宮入する場面は神田囃子とかけ声が勇ましい。司馬さんが言うように「将門の死んだ戦場の猛気がのこり、その地方のひとびとを悩ましたがために」祀られ、毎年その熱気を発散しながら鎮魂されるのであろう。明治7年に明治天皇御親排という話が持ち上がり、祭神が朝敵ではまずかろうということで急遽、将門を本殿から別院に移し、大洗磯前神社から少彦名命の分霊を招き大己貴命(大国主命)とともに祭神とした。しかし、地元がこれを黙っているわけがなく、全氏子の要請によって昭和59年には正式に祭神として復活した。
 東側の崖の階段を降りた地区が明神下であり、幕末から明治にかけて花街があった。ここの芸者を講武所芸者といったらしいが、当時ペリー来航に刺激されて小川町(現在のJR水道橋駅前)に幕府が開いた伝統武術の修練所へ通う兵士見習いが、帰りにその辺によって遊んで帰ったのでそう呼ばれるという説もある。少し離れすぎではないかとも思われるが、別の説は、講武所運営の経費捻出のために当時加賀っ原と呼ばれた明神下の幕府所有の火除け地を花街に貸与したという話もある。『胡蝶の夢』の主人公で佐倉の順天堂の佐藤泰然の次男・松本良順は明神下がごひいきだった。良順は長崎でオランダ医師ポンペから西洋医学を学び、幕府の医学所の頭取になっていたが、幕府の医学を蘭方一本建てにしようとして漢方の抵抗にあって悩んでいた。そのことについて洋学、漢学をこなし、希代の粋人である成島柳柳北に相談するため明神下の開花楼に呼び出した。さらに柳北の親友で洋学者の柳河春三が加わり、彼の褌おどりが始まって宴会は大いに盛り上がったらしい。幕臣・柳北は並外れた秀才で二十歳で将軍の侍講に抜擢され、『徳川実紀』の編纂員も勤めた。そのかたわら『柳橋新誌』という文化人類的芸者論を書いて江戸文化の爛熟期の貴重な資料を残した。明治になってからは朝野新聞の記者としてペンをふるった。


■「名所江戸百景 神田明神曙之景」歌川広重 安政3〜5年
  正月元旦の早朝に若水汲みの儀式を終えた神官、巫女、下男が東の空が明けていくのを見つめている。


■神田明神の男坂

■文化2年(1805)創業のうなぎや「神田川本店」がかつての明神下の料亭の賑わいをほうふつとさせるが、すでに高層ビルに取り囲まれ姿を変えるのは時間の問題か。

D5.鴎外の散歩道・無縁坂の岩崎邸とからたち寺

 森鴎外は明治5年(1872)、10歳の時に父とともに東京に出てきて、親戚の西周(あまね)の屋敷にあずけられ、そこから壱岐殿坂にあった進文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。12歳の時に東京医学校予科に入学するが、本来入学資格は14歳以上であったため父や西たちが2つ鯖を読ませ万延元年生まれとして届けた。この年齢の鯖読みについて鴎外は死ぬまで苦にしていたらしい。ともあれ無事に本科の厳しい試験にも合格し、実年齢14歳の時にはドイツ語で医学の講義を受け、21歳(実は19歳)という異例の若さで医学部を卒業する。
 入学当時は寄宿舎に入っていたが、本科4年のとき龍岡町にある上条という下宿屋に移る。無縁坂を登ってまっすぐ行った突き当りに大学の鉄門があり、その前に下宿上条はあった。鴎外はこの下宿から出て無縁坂を下り、不忍池の北を回って上野の山を散歩し、黒門町、仲町、湯島天神を経由してからたち寺の角をまわって帰るということをよくしていたらしい。これは小説『雁』の主人公「岡田」の散歩コースとして書かれている。

 寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘(からたち)寺の角を曲って帰る。

 臭橘(からたち)と書いてあるのは中国の薬効植物の本『本草綱目』に「俗ニ臭橘ト呼ブ」とあり、代々の医者の家に生まれた鴎外にとってはこちらの方が慣れ親しんでいた字であったのかもしれない。もともと中国原産で「唐たちばな」と呼ばれ日本では垣根によく使われている。普通は枳殻(からたち・きこく)と書かれ、漱石も『三四郎』の中では枳殻寺と記している。
 『雁』に出てくる銀杏返しのさびしい顔の美人・お玉さんは無縁坂の途中の肘掛窓のある家に住んでいた。このお玉さんのモデルになった人が鴎外のある時期の恋人であるらしいが、作家の森まゆみさんが『鴎外の坂・無縁坂の女』で「無縁坂とは幸薄いお玉の人生を象徴するような坂の名である」と書いている。
 
 
 からたち寺は通称で本当は麟祥院である。元は天沢寺という寺であったのを将軍の直命で春日局の菩提寺として彼女だけの寺(一建立)として天沢山麟祥院と名前を改めた。三代将軍家光の偉大な乳母・春日局こと本名・福は美濃の豪族斉藤氏の出で、父・利三は明智光秀の重臣だった。美濃の稲葉正成に嫁いだ福は三人の男子を育てた後、正成と正式に離婚し、たまたま江戸で家光の乳母を公募するという幕府の高札を見て応募し採用される。その後の大活躍は有名である。家光を将軍にするため駿府にいた家康にかけ合いに行ったり、京の朝廷が禅僧に与えた紫衣、つまり特権に対し幕府が抗議をした時に起きた朝廷と幕府の揉め事を調停に行ったりして高度に政治的な事柄をさりげなく見事に解決することが多かったらしい。彼女の墓が麟祥院にあるが、卵塔の竿の部分に孔が一つある。これは遺言で「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作ってほしい」という願いに応えたものであるそうだ。

 若き家康を助けて戦場で戦った井伊直政、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政は徳川家の四天王と呼ばれた。その榊原康政が家康からもらった屋敷地の一つが後に岩崎邸となる池之端の土地である。不忍池と上野の山を一望にする本郷台地の東側の崖の上は江戸城防衛の重要な地点であったのであろう。幕府瓦解後、榊原家は舞鶴城主牧野弼成に譲る。維新早々の頃は一時、桐野利秋が住んでいた。岩崎弥太郎は自分の子供たちのため学寮を創り、指導者として南摩綱紀や秋月悌次郎など旧会津藩出身者を起用した。その士風の堅固さや教育水準の高さに土佐出身の岩崎もほれ込んで嫡子久弥の教育に当たらせ、いわば家学として考えた。当初駿河台にあったこの学寮を後に本郷龍岡町桐野利秋邸に移し雛鳳館(すうほうかん)と称したという記録がある。明治29年、岩崎久弥はこの敷地にジョサイア・コンドルの設計による木造洋館、ビリヤード場などと、それに繋がる書院づくりの大広間や住宅を建てる。戦後の占領時代、米軍に接収されキャノン中佐の諜報機関がここを使った。キャノン中佐は激しい人で射撃を趣味とし、庭木を的にピストルを撃ったその弾痕が木に残っているそうだ。戦後の混乱期に起きた不可解な事件の一つに鹿地亘(かじわたる)監禁事件がある。プロレタリア作家鹿地亘がキャノン機関に突然拉致されこの岩崎ハウスに監禁、拷問をうけるという事件である。ソ連のスパイという嫌疑を受け、1年後解放された鹿地は、どこに監禁されているのかもわからなかったが、意識が朦朧としていた時、その部屋の窓から海が見えたことを覚えていると語ったそうだ。おそらくそれは不忍池がそう見えたのであろう。


■無縁坂 右が岩崎邸の石垣 鴎外の散歩した頃は石垣の間からシダ植物などが茂り、蛇が出てくるような隙間だらけの陰気な石垣であったらしいからこの石垣は昭和になってからのものかも知れない。『雁』に登場するお玉さんは左側に建ち並ぶ民家の肘掛窓から顔をのぞかせていた。

■麟祥院にある春日局の墓である卵塔には、死後も黄泉から世間を見通せるようなものを造ってほしいという遺言から真ん中に穴が貫通している。遺言の精神をこういう形でシンプルにデザインした作家の力量は素晴らしい。当時の寺の和尚であろうか。それとも単なる墓石職人だろうか。建築デザインの原点がここにある。

D6.ニコライ堂

 幕末の文久元年(1861)、函館のロシア領事館付きの司祭として来日したニコライ大司教は、函館で日本語や日本事情を勉強し、いったん帰国する。日本伝道会社をつくりその財政的基盤をもとに再び日本を訪れ、東京の駿河台に根拠地をつくる。本郷台地の先端で見晴らしがよく、江戸時代は幕府の定火消屋敷があった敷地にコンドルの設計でビザンチン様式の教会を建てた。明治17年に着工し、7年後の明治24年に完成、ドームの先端の高さ35m以上もある偉容は東京中から見えた。ニコライさんは明治の日本人に好かれ、日露戦争中も日本に踏みとどまった。関東大震災でニコライ堂は被害を受けるが、昭和4年に岡田信一郎などが参加して大改修され今日に至る。

■九段坂より神田方面を望む。明治24年完成のニコライ堂が中央に見える。(ファサリ商会撮影。新潮社「写真で見る江戸東京」より)ニコライ堂は近代都市となりゆく東京の新しいランドマークであった。写真左の塔は東京湾の漁船のための灯明台で明治4年にできている。現在も場所を道路の反対側に移して保存されている。

■現在の九段坂 遠く中央に見える高層ビルは明治大学。その裏にニコライ堂が見えたはずである。

■「大東京十二景の内 十二月 雪の駿河台」藤森静雄 画 昭和7年(1932) 聖橋とニコライ堂が景色の中に優雅さと格調を与えている。

■高層ビルの間に埋もれつつある現在のニコライ堂

D7.元町公園

 本郷台地の東端にある神田明神と反対側の西端に関東大震災後、震災復興公園としてできた元町公園がある。消失した木造校舎の小学校を耐震耐火のコンクリート造として建替える際に公園を隣接させ、小学校と公園のセットを避難所として機能させる構想が震災復興公園で東京都の主に東武地域に相当数整備された。元町公園もその一つであるが、台地の西端の崖の上で展望がよく開けていることをデザインに活かし、レベルの異なる小広場をその時代の様式であるアールデコの要素を取り入れて設計されている。昭和60年に文京区により復元整備され、当時のおおらかな設計意図があちこちに感じられる風景がよみがえった。


■「新東京百景のうち 本郷元町公園」逸見亨 画  おそらく公園には公園灯があり夜間でも利用でき東京の夜景を見る名所だったのかもしれない。山高帽を被った紳士が階段を登ってくる。都会の夜景は新しい時代の人々の楽しみになったであろう。当然昼間は西側に富士山を望むことができた。

■南側の外堀道路から約20m高さを何段階かのレベルに分けて設計

■中央にカスケードのある凝ったデザイン           ■猫たちにとっては日当たりよい別荘

■大将15年(1926)の設計図 図下側にある入口階段との左右対称のテラス状広場へ登って行くアプローチのデザインが当時の建築様式に準じた格式あるものとなっている。

D8.残ってほしい建物

 江戸から明治・大正・昭和へと輝かしい日本の近代の希望に満ちた街の雰囲気を感じることができる当時のままの建物がまだいくつかその形をとどめている。有名な歴史的建造物はもちろんのこと名もなき一般の庶民の住宅においても十分、時代の香りを鑑賞できる。様々な事情で取壊される運命のものは多いが、できることならそのまま残ってほしい。たまたま出会ったそういう建物を紹介しよう。

■名倉ビルの北側にある住宅

■本郷三丁目エチソウビルと本郷五丁目旅館鳳明館

■一葉愛用の伊勢や質店                 ■西片町の典型的な住宅

■大横通りの看板建築               ■旧大西質店

■白山の新町館・三宅家住宅 大正12年完成。大震災にも耐えた。

■湯島天神女坂下の料亭。保存活用のモデル。     ■建物ではないが風情のある観音寺の築地塀
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