E.坂道物語 物語リスト
E1.上野台地の坂
◆1.富士見坂
 東京にはたくさんの富士見坂がある。昔はそこから季節ごとに富士山を見るのが庶民の日常の楽しみの一つであったに違いない。現在でも富士山がよく見える最後の眺望地として、この日暮里の富士見坂があげられる。その富士山への眺望が高層ビル群により年々失われていき、ついに最後の時をむかえたというのが最近の事件である。数年前、新聞に載ったこの写真と記事によれば、景観を守ることは並大抵ではないという結論であったが、実際に行ってみるとやはりビルは建っていた。冬に来てどれくらい富士山の眺望が失われたか確かめてみようと思う。

■問題のマンションは完成していた。富士山の見えるフレームは次第に狭められていく。これだけ離れた場所からその部分に高層ビルを建てないよう協力してもらうことは現在の都市住民の意識からはほとんど不可能に近い。

■毎日新聞2000年1月15日の記事

◆道灌山と諏訪台
 上野の山から飛鳥山まで江戸の眺望地点が連なっている。飛鳥山と同様に江戸庶民に親しまれた眺望点が道灌山とそれに続く諏訪台と呼ばれた諏訪神社境内である。ここからは遠く筑波山、日光などが眺められ眼下には水田地帯が広がっていた。人々は夏の夜の夕涼み、聴虫(むしきき)を楽しんだ。
 鴎外も団子坂の家から長男・於菟を連れて散歩に出かけ、藍染川を渡り谷中を抜けて、諏訪神社辺りまでやってきた。鴎外が見晴らしのいい茶店で横になり哲学書などを読んでいる間、於菟は、崖の草むらで蝶や虫を追い回し、夕暮れになるまでゆったり時を過ごしたようだ。諏訪神社の並びにある本行寺を常宿としていた小林一茶がこの辺りの風景を句に残している。
     刀祢(とね)の帆が寝ても見ゆるぞ青田原

■『江戸名所図会』の「道灌山虫聴」長谷川雪旦画

■西日暮里駅から道灌山(西日暮里公園)へ上る坂。かつての眺望の良さをうかがわせる道灌山

■諏訪神社境内から西日暮里駅を見る。江戸期は一茶が詠んだように利根川に浮かぶ帆船や一面の青田原が見えた。

■諏訪神社境内。鴎外が寝転んで本を読んだ茶店はない。隣の淨光寺は諏訪神社の別当。右側の立像は紫銅(からかね)の地蔵。六地蔵の一つとして有名。

◆2.七面坂

■この坂を上って右手に入った先に朝倉彫塑館がある。

■彫刻家朝倉文夫が昭和初期に建てた自邸兼アトリエの屋上庭園から不忍池方向を眺める。文夫氏の胸像は毎朝、日が昇るのを眺めるように置かれている。

◆3.夕焼けだんだん

■日暮里駅から御殿坂を下り真西に向かうと猫の溜まり場「夕焼けだんだん」がある。降りると谷中銀座でおばさんたちで溢れている

◆6.赤字坂

■赤字坂 寺院の跡地に建てられた大規模な屋敷が多い。
 

◆7.三浦坂

■岡山の美作、真島藩三浦備後守の下屋敷の南に接していた坂で三浦坂と呼ばれた。寺院に囲まれ緑が多く、季節と時刻によっては何か出そうな雰囲気がなかなかいい。
E2.本郷台地の坂
◆16.大給(おぎゅう)坂
 坂上に大給豊後守の屋敷があった。坂上の通りは根津神社裏門から続く藪下通りで北西に曲がりながら富士神社前で岩槻街道(現本郷通り)に抜ける踏み分け道であった。この道に谷端川の谷から上る坂が大給坂より北には3つほどある。狸坂、動坂、稲荷坂である。動坂の上にはかつて赤目不動があった。不動坂あるいは堂坂とも呼ばれる。この辺の山の頂上には吉祥寺があり栴檀の林に囲まれていた。僧侶が学ぶ学問所がここにできて栴檀林と呼ばれ、後の駒沢大学へと継承される。栴檀の木が多かったからセンダギと呼ばれたとか、雑木林から一日に千駄も薪を切り出したから千駄木であるとか言われるが、狸などもたくさんいたであろう。この辺の山の一部を狸山と呼んでいたのでその下の坂が狸坂になった。大給坂の北にかつて高村光太郎、と知恵子夫人の居宅跡があり、父光雲の旧居跡も近くである。

■大給坂は細くカーブをしている。道の形態は江戸の頃からそれほど変わっていないようである。

■大給坂の坂上の通り(藪下通りの北部・保健所通り)に安田楠雄邸があった。安田財閥創始者・安田善次郎の娘婿・善四郎は関東大震災直後、この地に住宅を購入した。当時この通りは銀行通りと呼ばれ、数々の銀行頭取が居宅を構えた。平成になって善四郎の長男・楠雄氏が亡くなられ、土地建物が日本ナショナルトラストに寄贈された。現在トラストの手で屋敷と庭園が修復中でまもなく公開されそうである。

■狸坂(左)とその途中、北側に直角にはいる名もなき坂道 湯島の傘谷坂のように中央が谷部になっていて細いけれど雄大な感じのする坂である。東京の坂は年々、風情をなくしていくと思われたが、建物の間に少しでも緑があると景色はずいぶんと救われる。

■大給坂と団子坂の間にある須藤公園 かつて大聖寺藩の松平飛騨守の屋敷跡で10mほどの高低差のある崖状の土地に滝から流れる水を主役に造られた日本庭園。周囲は静かな屋敷町で豪邸が建ち並ぶ。

◆17.団子坂
 漱石、鴎外の数々の作品に登場する坂。坂上からは佃島のあたりの海が見えたことから潮見坂とも呼ばれた。鴎外の観潮楼はこの団子坂を下る途中で藪下の通りを右(南)に曲がったところにある。江戸の文化年間に巣鴨の染井で生まれた菊人形は安政の頃から団子坂で盛んになった。その賑わいは漱石の『三四郎』の中に迷子が出るほどの人ごみとして描かれている。

■団子坂 右手を後方に少し登ると観潮楼跡の図書館がある。そこから南に「藪下の道」が続く。

◆19.S坂、おばけ階段 異人坂
鴎外が『青年』の中で「S字をぞんざいに書いたように屈曲して附いてゐる」と書いた根津神社と東大農学部の間の坂で旧制一高生がS坂と呼んだ。しかしどう見ても実際はSの字をひっくり返した形である。農学部の野球場の東側におばけ階段がある。かつては周りを木々に覆われ暗く細い階段でおばけの出そうな階段であった。最近途中まで拡幅され、周辺も明るくなったようだ。さらに南に行くと異人坂がある。明治の頃、お雇い外人が前田邸跡地の各所に住んでいたがその宿舎の一つがこの坂の上にもあった。彼らはこの坂を降り、不忍池方面に散策に出た。近所の人から見ると外国のような風景だったのかも知れない。

■S坂 左手の緑は根津神社 後方に上ったところに東大農学部、かつての旧制一高がある。


■おばけ階段と異人坂 異人坂の擁壁が拗面(ねじれた面)になっているのが興味深い

◆20.弥生坂
三戸家の中屋敷跡に斉昭の歌碑があり、そこからとった弥生が町の名前になり、明治になって新しい坂道ができたので弥生坂と命名された。

■弥生坂 右手の緑は東大地震研究

◆25.実盛坂

■実盛坂 平家に味方した斉藤別当実盛は加賀の国篠原で木曽義仲と戦うが手塚太郎光盛に討たれる。出陣に際して敵に首を取られても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。湯島より池の端一帯を長井庄といい、むかし斉藤別当実盛の居住地であったと『江戸志』にある。

◆天神女坂

■湯しま天神社 歌川広重画 女坂のある北側正面に不忍池の弁天島を見て右の男坂越しに上野の市街地を描くのが典型的なビューポイントであった。

■天神女坂 上った右手が湯島天神。左から男坂が直登している。

◆天神男坂

■天神男坂 15mくらいの落差を上る。

◆30.傘谷坂

■傘谷坂の一本東にある坂  傘谷坂と同様に中央が谷になっていてこちらの坂の方が曲面が明快

◆37.男坂

■男坂 明大附属中・高校の運動部の生徒たちがほとんど毎日この坂と女坂を廻るトレーニングをしている。

◆38.女坂

■女坂 登っていくと途中で見えなくなるように曲がりくねっているあたりが女坂と呼ばれるゆえんであろうか。

◆39.皀(そう)坂

■皀(そう)というのはどんぐりの意味がある。御茶ノ水の谷、いわゆる名溪が右側に続いている。

43.建部坂

■建部坂の西側の坂 左側の高台の上に元町公園がありその東に実際の建部坂はある。元町公園は建部六右衛門の屋敷跡であり、西側つまり写真の左手は藪の繁ったがけであった。そこに年々ウグイスが来て時には12月にも初音が聞けたと『御府内備考』にある。当時はこの道はなかったかもしれない。建部坂は初音坂とも呼ばれている。

44.忠弥坂

■忠弥坂 油井正雪と共に幕府の転覆を謀り、未然に発覚して捕らえられた丸橋忠弥がこの辺りに道場を開いて住んでいたことから忠弥坂となった。南に江戸城の眺望が開ける場所であり、陰謀を画策した二人はこの坂から城を眺めながら相談したかどうか。

47.外記坂(新坂)

■新坂(外記坂) 江戸時代に造られた坂で坂上の西に内藤外記という旗本が住んでいた。坂上一帯は弓町と言ったが、江戸城から鬼門に当たるこの地に御弓組の与力同心を住まわせ毎日弓の練習をさせていたそうだ。寛永寺ができると御弓組も役目を終えて目白に移転したらしい。

50.菊坂、51.本妙寺坂

■本妙寺坂 車が出てきた所が菊坂で、これを渡って登ると本妙寺があった。振袖火事と呼ばれた明暦の大火で有名になった本妙寺は、実は火元ではないことがほぼあきらかになったが、明治43年に巣鴨に移転している。

52.炭団坂、梨木坂

■炭団坂(左)を下りて菊坂に出て再び梨木坂(右)を上ると森川町へ出る

53.鐙坂、胸突坂

■鐙坂(左)と胸突坂(右) 馬に乗るとき足を掛ける馬具が鐙。これを作っていた職人の子孫が住んでいたという説と坂の形が鐙に似ているからだという説がある。胸突坂はもともと菊坂と呼ばれていたようである。ここを囲む菊坂町というのが広がって大きくなったため下の坂が菊坂と呼ばれるようになった。

55.新坂(福山坂)と石坂

■福山坂 おそらく明治になって福山藩の阿部屋敷が西片町として住宅地になる頃に新しくできたものである。この台地の西側に続く崖下が旧丸山福山町で樋口一葉の終焉の地がある。

■石坂 本郷台地の中央部西側に菊坂となっているY字状の谷があり、台地を南北に分断している。北側は福山藩阿部家の屋敷跡であり明治後、西片町となった。その南端にこの石坂がある。大きくカーブしながら下っていく坂はスケールが大きくて立派である。

56.浄心寺坂と曙坂

■坂の北側(右手)に浄心寺があり、坂を下ると円乗寺があって八百屋お七の墓(右の写真)があるのでお七坂とも言う。

■曙坂 ここよりずっと離れた北の東洋大学辺りに土井利勝の屋敷があり、近くに暁に鶏の時を告げる声が聞こえる鶏声ヶ窪と呼ばれる里があった。そこを曙町と名づけたが縁起のいい名前をこの場所にも借りて曙坂としたそうである。この階段は福山藩の学校で後に誠之小学校となった名門学校の西側の崖が南側に続いている場所にある。
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