本郷・上野台地の物語リスト 日和下駄通信トップページ

司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの中に収められている本郷界隈と神田界隈から、
本郷、上野の風景を舞台とする物語を掘り起こしていきます。

写真:上野の山から不忍池の弁天堂とその先の本郷台地にある東大病院を見る A.明治が出発した台地

 縄文海進の頃、本郷と上野の二つの台地は東京湾の海面に接し、日当たりもよく、豊富な海産物に恵まれた暮らしやすい居住地であったに違いない。武蔵野の西に源を発し、これらの台地のふもとで海に流れ込む幾筋かの川に沿う谷間の湿地では稲がたわわに実っていたことだろう。江戸時代の平屋の大名屋敷が高級マンションに変わり、せせこましくなっても素性の良い台地の面影がところどころに名残を残している。幕府が上野の山で滅び、明治の近代化の指導者たちが本郷を出発点とした。明治到来とともに劇的に変化した二つの台地の物語がここにある。
写真:家康像 B.家康のまちづくり

 家康が自ら望んだわけではない江戸への入城。それにもかかわらず彼は江戸の可能性を直感し、すぐさま大規模な土木事業に取り掛かる。組織運営のベテランは街づくりの上でも用意周到であった。
 もちろん家康の精神は代々伝えられ徳川幕府の慎重でしたたかな都市造りが継承された。
 江戸が抱えていた本質的な都市問題を有能な家臣団がどのように解決していったのであろうか。

C.湧き立つ学校 

 明治初期、本郷前田邸跡に初めての官立大学ができたことによりこの地域の様相は一転する。西欧文明のエネルギーがこの地から日本全国に分配されるような機能をもつことになる。それを司馬遼太郎は配電盤と説明している。
 配電盤が極めて効率的に機能したことによってアジアの中の日本はその後の優位性を順調に確保する。配電盤の周辺には学問、技術を吸収しようとして日本中から集まった若いエネルギーに満ちた人々が大勢溢れていた。、

鴎外            漱石

子規            一葉
D.気になる場所

 今よりはるかに貧しい時代、若く溌剌とした近代日本の文化人たち、特に文豪たちは、希望も失望もごちゃまぜに抱え込んで、とにかく力いっぱい生きることに充実感を感じながら本郷、神田、上野辺りを歩きまわっていた。今でもこの界隈には彼らが発した若さの名残をとどめる場所がたくさんあるような気がする。

■菊坂より南に下がった路地から菊坂へ上がる坂。この路地の右方向の奥に樋口一葉が住んでいた。
E.坂道物語

 台地には武家屋敷や寺院が建ち並び、谷地には町屋がひしめき、その間をたくさんの坂道が結んで人々の交流を盛んにしていた。街には必ず表と裏の表情があり、その両者の存在が街の活力の源であった。坂道の上はすました表の世界、下れば活き活きとした裏の世界。人々はその間を行き来しながら、様々な夢を描いた。
 
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