C.狐の住んでいた崖 物語リスト
C1.荷風邸の狐
 永井荷風の小説、『狐』は、小石川にあった荷風の生家での話である。小学生の荷風にとって、その大きな家の敷地の中にある荒れ果てた空き地は、恐ろしいものがたくさん潜んでいる闇と幻想の世界であった。
小石川地域一帯は、江戸時代初期、市街地の北西のはずれにあたり、畑や薄が原の続く田園地帯であった。振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657)の後、数多くの大名屋敷や寺院が、中心部から移転し、台地上に武家屋敷と寺院、街道や谷沿いに町屋群が集まり、新しい市街地が形成され、幕末まで格調高い武家・町民のまちとして栄えた。明治維新とともに、旧幕の旗本、御家人などが一斉に消えてゆき、入れ替わりに新政府の役人や軍人が登場した。町の中には、一時期、廃墟のようにうち捨てられた大小の武家屋敷や、取り壊されて桑畑や茶畑にされた土地が、あちこちに見られた。
 荷風は、こうした状況の中、明治12年(1979)12月に、この小石川の一画に生まれている。父親は、まさにこうした新興勢力の代表とでも言うべき新政府の高級官僚であった。
 「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、その頃私の父は三軒ほどを一まとめに買い占め古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。」
 「昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の蔭はいよいよ暗くなっていた。その最も暗い木立の奥深いところに昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。」
 「井戸の後は、一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立っている杉の茂りが一層その辺を気味わるくしていた。杉木立の後は、忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人通のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになってくれればと父が絶えず憎んでいる貧民窟になっていた。もともと分かれ分かれの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなっているが、古井戸のある一隅は住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり家人からは全く忘れられた崖下の空地である。母はなぜ用もないあんな地面を買ったのかと、よく父に話をしておられた事がある。すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいといっておられた。父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が時としては松の瘤よりもなお空恐ろしく思われた事があった。」(『狐』)

 荷風が怖がるこうした家に、ある晩、泥棒が入り、母親の着物が盗まれ、古井戸の後ろの黒板塀を乗り越えて入ったらしい事がわかる。明治維新の混乱がようやく落ち着き始めた頃ではあるが、大きな社会の変化に伴う不安定な世相はなお残っており、こうした事件が恐さを増幅した。
 「独り私のみではない。盗難にあってから崖下の庭、古井戸の付近は、父を除いて一家中が恐怖の中心になった。丁度、西南戦争のすんだ頃で、世の中には謀反人だの、刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり。少し門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家の縁の下からは夜陰に主人の寝息を窺って、いつ脅迫暗殺の白刃が畳を貫いて閃き出るか測られぬというような暗澹極まる疑念が、何処となしに時代の空気の中に漂っていた頃で。」(『狐』)
図1
 ここに明治19〜20年に刊行された、参謀本部陸軍部測量局による五千分の一の地図がある。明治8年から着手され、当時の世相の中で予想された内戦に対する防備を念頭に市街地の詳細な構造、例えば、家屋や橋の材質や構造が明記され、地形も2m毎の等高線で示された地図の傑作である。この地図で、荷風の生家を訪ねてみると、今はなき金剛寺の南に、ちょうど崖を斜めに含んだ敷地があり、荷風の記述に従って範囲を鎖線で囲むと図1のようになる。さらに同じ部分を江戸の切り絵図(図2)で調べてみると数件の武家屋敷がその中に入る。
図2

図3(現況図)
 これらをもとに、当時の荷風の家を想像図として描いてみた。敷地の大部分を占める一段低くなった空き地と大きな家の敷地となっている土地の堺に6〜7mの崖が続いている。恐らくこの崖の北側部分に問題の狐の住処である洞穴があったのであろう。

 『狐』の中で荷風少年(永井荘太)の目に映った荒れ果てた古庭の恐ろしさは、半世紀以上も後になる我々の少年時代の風景としても共通の何かがあって非常に懐かしい感じがする。
一段低くなって家から離れている古庭には井戸が二つあり、その一つは、出入りの植木屋によって何年もかかって埋められいよいよ地上部分が壊されようとしていた。
 「白く乾いた茸の一面に黴び着いている井戸側を取壊しているのを見た。これも数ある恐ろしい記念の一つである。蟻、八十手(ヤスデ)、蜈蚣(ムカデ)、蚰蜒(ゲジゲジ)蚯蚓(ミミズ)、小蛇、地虫、鋏虫、冬の住家に眠っていたさまざまな虫けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死(くたば)ってしまうものも多かった。」(『狐』)
 植木屋が、この井戸側を鉈で割って壊し、枯れ枝や落ち葉を集めて火を付け、のたうち廻る虫けらも一緒に燃やすと、パチリパチリ音を立て湿った白い煙が悪臭を放ちながら立昇る。大きな老樹の梢にもの凄い音で木枯らしが鳴る。四歳の少年は思わず泣き出してしまう。こうして、一つの井戸は跡形もなく片付けられてしまうが、さらに奥にあるもう一つの井戸は深くて埋められず、そばにある大きな柳や黒く静かに立っている杉の茂みとともに一層、気味悪さを醸し出している。その奥に泥棒が入ってきたと思われる黒板塀があり、この古井戸周辺は、父以外の家中の人々にとって恐怖の中心となった。
 冬のある雪の降り積もった朝、荷風少年の飼っていた鶏が狐に襲われたことを、父が発見する。鶏小屋から血痕が庭の奥を通り、崖にある洞穴に続いていた。大騒ぎとなって出入りの職人や家族が総動員で狐狩りが始まり、半日後、燻り出された狐は、鳶の職人に一撃で倒され、その晩は一同で大宴会となる。たまたま魚屋が休みだというので結局残っていた二羽の鶏が潰され酒の肴になってしまう。一部始終を見ていた少年荷風は、むきになって狐を憎み、あげくの果てに鶏まで殺して、真っ赤に鬼のようになって酒を飲んでいる大人の何とも理不尽な行動や気持ちの激しさに得も言われぬ恐ろしさを感じてしまう。
 明治維新という革命により、敗れて去りゆくもの、変化により滅亡していく風景、そうしたものが殺された狐に重なりあってしみじみとした感慨をもたらす作品である。今でもこの近くを歩くと地下鉄丸の内線沿いの崖とか、第六天町の大蔵省官舎の崖のどこかに洞穴を掘り、ひっそりと狐が隠れているような気がする。

■(上)第六天町から茗荷谷にかけての崖 ■(下)地下鉄丸の内線が走る金剛寺跡地の崖
C2.沢蔵司稲荷
 荷風が12,3歳の頃まで永井家は、前述の金富町にいたが、その後、家を売って飯田町、一番町と次々に引っ越し、最終的には大久保余丁町へ落ち着いた。後に荷風自身はアメリカを経てヨーロッパに留学することになるが、生家を離れた後も、少年時代の楽しい時を過ごした小石川周辺を懐かしみ、たびたび訪れている。その時の様々な感慨を綴ったが『伝通院』という小品で、次のような望郷の思いが語られている。
 「進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋しく思返す。」(『伝通院』)
その小石川の中心的場所が荷風によれば、伝通院(でんずういん)ということになる。
 「伝通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下っていき、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。」(『伝通院』)
 外国から帰って間もない11月の曇った寒い日に、荷風はふらりと伝通院周辺を訪ねる。周辺の変わり様は激しかったが、伝通院そのものは昔と変わらない佇まいに昔を懐かしみ、安心して帰宅するが、なんとその晩、伝通院は火災で焼失してしまう。
 「何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまったのだ。」(『伝通院』)
 伝通院とは、家康の生母、於大の法号であり、まさに徳川家の菩提寺である。千姫をはじめ、徳川家の女性達の墓があることで有名だが、江戸時代は、学寮(栴檀林といって修行するところ)即ち仏教大学でもあった。この学寮に沢蔵司(多久蔵主たくぞうす)という修行僧がいて、わずか三年で浄土教の奥義を究めた。元和六年(1620)5月7日の夜、学寮長の和尚の夢枕に現れ、「余は、千代田城内の稲荷大明神だが、かねてより勉学したかった浄土教を修得できたので、これより元の神に戻り本山を末永く守護して恩に報いたい。」と言って暁の雲に隠れた。そこで伝通院住職の廓山上人は、沢蔵司稲荷を祀り、慈眼院を別当寺とした。沢蔵司はそばが好きで、伝通院門前のそばやへよく行った。沢蔵司の来た日には必ず代金の中に木の葉が混じっていたので、そば屋の主人が沢蔵司の後をつけていくと、伝通院の裏の崖に消えたという。
 『東京名所図絵』には、伝通院の東裏にある崖下に狐の棲む洞穴があると記されている。現在はその洞穴を霊窟として稲荷を祀っている。
こうした伝説があるということは、荷風邸の狐と同様に、古くからこの辺の崖の洞穴に狐達が棲みついて、庶民の日常生活の中に様々な形で登場していたのではなかろうか。

■(上左)鳥居を下ると崖下に写真右の洞穴・霊窟がある。

■善光寺坂の途中にある沢蔵司稲荷・慈眼院がある。
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