D.庭園物語 物語リスト
D1.小石川後楽園
 家康の十一男で、水戸家の祖となった徳川頼房(威公。1603〜61)は、寛永6年(1629)、幕府(三代家光、在位1623〜51)より、小石川台地の突端にあるこの地一帯、約25haを拝領した。その年の九月、邸宅が完成し、江戸城内吹上にある上屋敷に続き、中屋敷とした。その後明暦三年(1657)の大火で江戸城吹上の上屋敷が焼失したのを契機に小石川が上屋敷となり名実ともに水戸家の拠点となる。屋敷は、現在の東京ドームの位置にあり、頼房はその西側に敷地の約三分の一を占める江戸で初めての廻遊式庭園を築いた。
 南向きの台地の突端という絶好の敷地条件を活かし、明るく眺望に優れ、しかも神田上水を引き入れて豊かな水による景観を造りだした。当時一般には大規模な土木工事は厳しく規制されていたが、頼房は家光と親しかったことから庭園の大造成は難なく進められたばかりか、家光も直接指揮を執って支援し、さらに伊豆御用山の自然石を多数贈ったとも云われている。
この庭園の中心的景観は琵琶湖に見立てた大泉水であり、頼房や光圀は、ここに船を浮かべ客人をもてなしたり、舟遊びをしたり、思索にふけるなど水辺を十分に活用している。そこに突き出ている「一つ松」は、琵琶湖西岸にある唐崎の松の見立てである。家光が庭造りに参加した時にも、この松に腰掛けて指図したと言われているから、当初から敷地にあったものと思われる。しかも、この松は根本まで水に浸かっていたというから、この場所はもともと平川の水が入り込む沼沢地であり、牛天神の縁起にある源頼朝が船を繋いだという舟繋ぎ松はこれであろう。

 その後、庭造りは、頼房の三男、光圀に引き継がれて完成する。光圀(義公、1628〜1700、水戸黄門)は六歳の時、世継ぎと定められて後、この地で頼房とともに暮らした。少年期、放蕩に耽ることもあったが、18歳のとき、司馬遷の史記を読み、その中の「伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)」の物語に感銘を受ける。中国古代の小国の王子で兄弟の伯夷・叔斉が、王位継承問題で互いに譲り合う気持ちから国を出て、さらに清い心のために周の国の首陽山で餓死してしまう物語に、感動し、自分が長兄を差し置いて世継ぎとなったことに強い後悔の念を抱いたが、その後、長兄の子、綱條(つなえだ)を養子として自分の世継ぎにしたこと、生涯をかけて国史の編纂事業(「大日本史」として光圀の死後、完成)に取り組むこと、さらに人の道を極めるために学問修養に励むことによってそれを乗り越えた。光圀33歳のとき、頼房が死去。築庭を受け継いだ光圀は、自身が信奉する儒学思想を基調とした庭造りを行った。明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水の意見を聞いて、造園工事を進め、西湖堤や円月橋など、中国趣味豊かな景観づくりをした。また、庭園の名称も朱舜水に命じて選ばせ、後楽園とした。宋の范仲淹(はんちゅうえん・文正)の『岳陽楼記』の、「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(士はまさに、天下の憂に先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)から銘々された。
その後、明治2年(1869)、版籍奉還により、この土地は国に上地され、明治12年に東京砲兵工廠が置かれた。庭園を廃止し、兵器製造所の拡張を図ろうという動きがあったが、陸軍卿・山県有朋の意見で名園保存が実現したという。
 現在の入口は南西の角であるが、当初、東側にある中屋敷の書院に面する内庭から唐門を経てこの後園に入るようになっていた。唐門には、朱舜水の書いた「後楽園」という扁額が懸かっていた。東側中央部には、赤門という門があり、この当たりから入れば、松原を通して、最も中心的な大泉水(大池泉)が先ず見える。この松原は光圀が最も愛した場所だと云われる。
この庭園には、日本各地の景勝地が織り込まれ、さらに中国の歴史や思想からのエピソードが風景造りの中に様々な形で展開されている。法政大学教授陣内秀信氏が『<名所めぐり式庭園>の傑作』と言うように凝縮した地形の変化の中に幾つもの実景を見立てていて素晴らしい。

◆ 九八屋。中屋敷のあった所から今は閉鎖されている赤門をくぐって最初にあるあずまや、酒亭である。光圀は好きな松原の風景を眺めながら一杯やったのであろうか。九八の意味は酒は昼九分、夜八分が適量という事から命名された。
       九八屋:藁葺き屋根が大きく農家の佇まいを思わせる質実な四阿

◆ 稲田、花菖蒲田、藤棚、八つ橋、不老水。これらは、神田上水の流れを引き込んだ低湿地帯にあり、農業地景観を呈する。光圀は、跡継ぎである綱條の夫人たちに農民の労苦を教えるため、実際に田植えや稲刈りの様子を見学させた。不老の水は、中国の神仙思想に基づくもの。山東半島の遙か東方の渤海に浮かぶ蓬莱、方丈、瀛州の三神山にあると考えられた水。これを飲むと永遠の生命と富を得られる。
     田園風景:現在は区内の小学生が田植え稲刈りをする。右は不老水の井戸

◆ 八卦堂跡。愛宕坂。花菖蒲田の背後の神田上水を渡ると小高い山があり、かつては、小石川大地の南端として北側の敷地外の丘陵地に連なっていたと思われる。ここから富士が見えた。富士見山。この山にはお堂があり、その前に踏み面15cmの急な階段、愛宕坂がある。京都の愛宕坂に因んだ命名。山の上の寺社にまっすぐ上がる階段を愛宕坂という。山頂には、八卦堂の礎石だけが八角形の大地を残している。

◆ 松原から大泉水沿いに西に行くのは、陣内教授によれば、東海道駿河の縮景で構成されている。後楽園に取り入れられた東海道の縮景はまず、広重の不二三十六景「伊豆の海浜」に描かれている大岩。ほとんど気づかれないほど小さく足下にる。続いて白糸の滝や一本松がある。一本松は琵琶湖のそばの唐崎の松と言われるが、三保の松原にある羽衣の松とも見立てられる。此の当たり一帯を海を背景にした駿河の国と見ることが出来る。頼房は、大阪の陣(1614〜1615)の約二年間、従軍した兄の頼宣に代わって駿府城を守った。子供の頃の親しんだ懐かしい風景をここに写したのだろう。その後、駿河は、頼宣が統治する。頼宣は、紀伊家の祖となる。
                    左:大岩   右:白糸の滝

◆ 円月橋、得仁堂、小廬山、通天橋、清水観音堂。円月橋は、神田上水に架かる朱舜水が設計したといわれる石の太鼓橋。水面に映り満月となって見える。得仁堂は、光圀が建てたこの園の中で最古のお堂。伯夷・叔斉の像が祀られていたという。孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と言ったことに由来する。小廬山は、オカメ笹におおわれきれいな形の小山、展望台ともなっている。中国の名勝地廬山に似ているというので、林羅山が命名した。京都東山にある東福寺の本堂から開山堂への歩廊を通天橋というが、それを引用したもの。ここでは、得仁堂と清水観音堂を結ぶ。清水観音堂は、清水の舞台を縮小した観音堂があったところ。舞台の東に流れ落ちる滝があるが、それを引用する音羽の滝もここにはある。
 左:円月橋。水に映ると満月となる。  右:笹に覆われた小廬山。頂上が小展望台。

◆ 大堰川、渡月橋、西湖堤。神田上水から水車で水を上げ、流れをつくり、南側の竜田川、木曽川を経て、神田川に落としていた。渡月橋とともに、京都嵐山の風景を引用した。西湖堤は、中国の名所で、至る所に縮景がある。(旧芝離宮、和歌山の養翆園、広島の縮景園など)8世紀頃、杭州が大きく発展する。黄河流域の北中国と長江流域を結ぶ大運河の開通により、南北の交通が盛んとなる。杭州は、海外とも通じる南の起点として交通の要所。人口増加にともない飲料水の確保が問題となり、822年、杭州刺史(しし)として赴任した白居易(白楽天)は、西湖一帯を調査し、北部に一条の長堤を築いて湖水を二分した。これにより蓄水と放水の調節に成功し、この堤は「白堤」と呼ばれている。もう一つ長い堤があるが、これは、1089年、蘇軾によってつくられた。二人は共に、大詩人であり、西湖の美しさを詠ったばかりか、その水を守った立て役者。統治者のあるべき姿がこの西湖堤には、象徴されている。
     左:八景式の名所に必ず出てくる西湖堤。 右:京都嵐山の大堰川。

◆ 竜田川の紅葉林、中仙道の木曽路、寝覚めの滝、蓬莱島、竹生島。
大泉水の南西側には、旅の詩人でもある西行のお堂跡があり、その先には池に面した紅葉林に沿って竜田川が流れている。奈良の斑鳩地方を流れる川で古代から紅葉で有名でたくさんの歌に読まれている。在原業平の「千早ぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」が代表的な歌。紅葉林の向こうに池に浮かぶ蓬莱島と、その手前にこの庭園の庭師、京都の徳大寺左兵衛がしつらえた徳大寺石が見える。池の右手には、琵琶湖に浮かぶ竹生島が見える。緑に覆われた山道は中仙道の木曽路を表現している。木曽名所の寝覚めの滝もある。東の端は、実は中屋敷からこの庭園の入口であった唐門跡とそれに続く内園である。
           庭園の中心施設である大泉水。紅葉が美しい。

D2.小石川植物園
 三代将軍家光の四男、徳松(館林藩主、後の五代将軍綱吉)は、承応元年(1652)小石川のこの地に別邸を与えられた。もともとそこにあった簸川神社、白山神社は、それぞれ敷地の北西と北東部に移設され、御殿は白山御殿と呼ばれた。貞享元年(1684)、現在の護国寺の所にあった高田御薬園を御殿内に移転させ、八代吉宗時代には、敷地の大部分が御薬園となった。享保七年(1722)町医者小川笙船の意見により貧困者のための施療所・小石川養生所が設けられた。明治維新後、東京府の所轄大病院附属薬園となり、明治10年(1877)東京大学の付属植物園となる。地形は小石川台地と同様に白山の台地が小石川により削られた形で南西に面した崖地をなしている。小石川は上流で千川用水につながっているので千川と呼ばれているが、かつてはかなりの水量で両岸は一帯に氷川田圃と呼ばれる水田地帯であった。植物園内の池は恐らく小石川の流れが入り込み、船の出入りが可能であったと思われる。白山神社の御神体となっている松の大樹は、もともとこの地にあった時に現在の日本庭園の池あたりに生えていた舟繋ぎ松であったという。地形で見るとかなり急な崖地をなしており、白山御殿からの眺めは江戸御府内を一望に見渡せた素晴らしいものであったろう。その眺めの様子は現在でも植物園の北西にある展望あづまやから望める。現在の日本庭園は、白山御殿当時のものとその後の蜷川能登守の屋敷跡とに残されたものの一部のようだが地形を活かした自然流と言える。現在の植物園は、なんといっても迫力ある高木の樹木景観が大きな魅力となっている。もちろん日本最古の植物園であり、広さも約16haあって植物標本の多様性や珍しさも素晴らしい(ニュートンのリンゴやメンデルの葡萄もある)が、メタセコイヤ、銀杏、プラタナス、ユリノキ、菩提樹、などの大木のスケールには圧倒される。特に秋の葉が落ちた頃に枝ばかりとなったプラタナスとユリノキの林立する中に暫く立っていると一瞬別の世界に入り込んで、木の妖精に取り囲まれたような気分になってくる。この植物園は、一年中どこかで何かの花が咲いており、花の木を手入れの行き届いた完全な形で鑑賞できることも素晴らしい。

■江戸名所図絵の氷川田圃と氷川神社。左下に小石川(千川、谷端川)が流れ祇園橋が架かっている。右上に延びている坂は、網干坂でその右手が白山御殿即ち御薬園の敷地。手前を左に上がるのが氷川神社。

■メタセコイヤの林。第三紀層から出る化石の研究の結果、三木茂博士により1941年にメタセコイヤという化石属が発表された。およそ100万年前に絶滅されたものと考えられていたが、1945年に中国の四川省奥地で現生種が発見され、「生きた化石」として有名になった。この種子が採集され、アメリカ経由で日本に送られたものを1949年に播種し、挿し木で増殖したのがこの林である。

■植物園の主たち。たくさんの猫君が来園者を待っています。ここは彼らの楽園です。
物語リスト 小石川台地マップ 日和下駄通信トップ