E.坂道物語 物語リストに戻る
 小石川の界隈は「A.変化に富む地形」のところで見たように坂道だらけである。大きくは江戸川に向かって南に下る坂道、北西から南東に横たわる台地に直角に南西の谷に下る坂道と北東に下る坂道がある。それぞれの歴史の中で個性ある名が付いているが、ここでは、代表的ないくつかの坂の風景を眺めてみる。(坂の名の由来については、主に文京区教育委員会発行の『文京の坂道』の説明を引用させていただいた)
E1.富坂(鳶坂、西富坂、飛坂)
             
小石川台地の背骨を登っていく雄大な坂
 トンビ(鳶)がたくさんいて女の子の持っていた魚を舞い降りて狙ったという(『紫一本』)とんび坂。また、二ケ谷と呼ばれる春日町の交差点の谷を挟んで東西に坂があり、東西に坂が飛んでいることから飛坂とも言う。江戸の頃は南側に広さ約34haの水戸藩の上屋敷があり、明治8年(1875)以降は、我が国最大の官営機械工場である東京砲兵工廠となって昭和8年(1933)まで続いた。敷地の中央にある約7haの後楽園がかつての面影を残している。写真は春日町交差点を見る。右手の緑は礫川公園で、江戸時代の富坂が延びていた所。現在の道路の部分は火除け地として空いていた部分に出来ている。


☆江戸名所道戯尽 三十八 小石川
にしとみ坂の景 
                            歌川広景画 安政6年(1859)
 坂の途中で天秤棒を担いだ八百屋さんが、野良犬の喧嘩に足を取られ籠のミカンをこぼしてしまう。それをあわてて拾って食べている街の人々。右に見える通りは、こんにゃく閻魔の裏通りではなかろうか。大きな市松模様のモダンな幟が立っている店は見せ物小屋のように見える。その手前隣りに大きな鳥かごがいくつも並び、道には、アヒルが何羽か遊んでいる。鶏肉でも売っているのだろうか。遠くに見える山並みは、傳通院の丘や白山地区の丘を山のように描いているのだそうだ。

E2.庚申坂(切支丹坂)
 嘉永七年の尾張屋清七板の江戸切絵図には、キリシタン坂と記入があるが、東京名所図絵では、これは間違いであるとしている。昔、坂下に庚申塚があったことから名前が付いた。茗荷谷の崖下る急な坂であり、昔はこの途中から、茗荷谷の湿地帯と溝に架かる小さな橋、それを渡って藪の中を登っていく反対側の寂しい坂(幽霊坂、切支丹坂)が見えたらしい。いかにも幽霊が出そうな風景であるが、現在は地下鉄丸の内線の敷地となっており、やはり寂しいトンネルが橋の代わりに先方に続いている。
 とぼとぼと老宣教師の登り来る  春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)

 下の写真から推察すると、この坂の上からはやはり富士山がよく見えたと思われる。


E3.大日坂(八幡坂)
 坂上に田中八幡宮があったが移転したため、その後坂下の妙足院にある大日如来を祭った大日堂にちなみ大日坂という。大日堂は江戸の名所で明治には毎月八日の縁日に水道通りの古川橋から江戸川橋まで露天で賑わった。大日坂を下りきると江戸川である。昭和41年まで江戸川と呼ばれた神田川は、明治の半ば頃、土手の桜が石切橋から隆慶橋までみごとで有名だった。
     江戸川のみ(水)かさまりて春雨の
        けぶり煙れり岸の桜に    (若山牧水)
■遠くに見える市街地は都心部。この坂を下っていく左手にある大日堂は現在、ひっそりとした佇まいを見せている。かつては下図のように賑わいの場所の一つであったようだ。


■上の図は『江戸名所図絵』における大日堂と大日坂。下の図は、山本松谷が描く『新撰東京名所図絵』における江戸川夜桜見物の絵である。
E4.湯立坂   
 松平大学守の上屋敷跡地が旧教育大学になり、現在は教育の森公園となっている。その公園に沿った坂で、千川の谷に下る。かつてこの川では蛍狩りをし、夜はカンテラをつけてドジョウをとったり、製薬工場は水車を使って生薬を衝いたという。古くは簸川原といって鮎、ウナギ、芹などをとったという記録がある。『江戸志』には、大河入江にて、対岸の氷川明神に渡って行けなかったので、この坂から湯花を立てて献じたことから湯立坂と名が付いたという。その後、千川の流れは細くなり谷は、氷川田圃になっていった様子がD2の小石川植物園のところに載せた名所図絵にうかがえる。千川には祇園橋が架かり氷川神社にも歩いてお参りができるようになった。(ということは、綱吉が白山御殿を建てた頃に氷川神社は現在の所に移っているわけだから、その頃はまだ祇園橋はなく、大きな入江がこのあたりまで入り込み、白山御殿の池にも船が近づけたということが推定される)

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