F.気になる風景 物語リストに戻る
 なにげない街の風景の中に突然、印象的な光景が現れることがある。閉ざされていた視界が急に開けて遠くの街や自然が一望に見渡せた時とか、周囲に居並ぶものと一線を画するような、これは一体何だろうと思うようなものが現れる場合である。ほれぼれするような美しい風景もあれば、微笑ましい風景、あるいはしみじみ懐かしく感じる風景などいろいろあるが、荷風のように「無用な感慨」に浸ってしばし佇んでしまうような風景は、その本人にとっては一番気になる風景かもしれない。こうした風景を生み出している場所に遭遇すると何となく嬉しくなるなるのは、イーフ・トゥアンの言う「トポフィリア(場所愛)」というもののせいなのだろうか。そんなことを考えながら拾い集めた風景を幾つか下に紹介する。

F1.沢蔵司の魂が宿る椋の大樹
 傳通院の裏門に当たる所に塔頭、縁請院があり、明治17年に善光寺分院・月参堂となったのでその前の坂を善光寺坂という。この坂を傳通院の表門の方に向かっていく途中に椋の老樹がある。道路拡張の時に切られそうになったがその斜め前に沢蔵司稲荷があり、修行僧・沢蔵司(たくぞうす=稲荷大明神)の魂が宿っていることで残された。椋の木の前にはかつて幸田露伴の住んだ蝸牛庵があり、現在は幸田あやさんの自邸になっている。広場というには小さいが文学的香りの漂う場所である。


F2.六角坂の猫
 善光寺坂を下り、こんにゃく閻魔のある通りに出る手前で南に入りさらに西に戻る道を行くと六角坂がある。六角坂の上り端の角に「立花さんちの猫」が睨みを利かせている。この坂の西側には、江戸時代、六角帯刀(たてわき)の屋敷があった。またこの近くには慶長年間、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る家来衆である御餌差衆(えさししゅう)の屋敷があった。現在は、立花隆さんの仕事場であるいわゆる猫ビルがあり、鷹の餌を横取りするかの如く狙っている。どうして猫なのかは、わからないが、このロケーションと周囲の雰囲気にまさにぴったりの感じがする。特に富坂の方から六角坂を下ってくると、全くこの猫には気づかず、角で曲がったときに突然現れるところが面白く、また、ビルに溶け込んだようなペインティングがいわく因縁のありそうな猫の精が滲み出してきたようで不思議な迫力を感じさせる。


F3.こんにゃく閻魔

 善光寺坂を下りきったところが、かつて千川即ち小石川が流れていた通りで、江戸時代、この谷に沿って町屋が建ち並び、たくさんのお店で賑わったに違いない。その中心にあったのが源覚寺の通称こんにゃく閻魔である。おばあさんが閻魔様に願い事をし、それをかなえてくれたお礼にこんにゃくを毎月かかさず供えたというお寺である。今でも縁日には庶民がたくさん訪れこんにゃくを供える。この境内の魅力は、賑やかな通りからほとんど気づかない小さな入口に続く細長い参道を抜けて到達する極めて親しみのあるお寺の空間であり、こまごまとした諸施設の多様さである。
            左:細長く奥に続く参道  右:いろいろなお堂がある。


      左:ベンチがあって公園のように一息つける。右:昔懐かしい看板を掲げた閻魔通り商店街
F4.徳川の女性達の墓
 伝通院は、家康の生母・於大をはじめ、京都の公家から嫁いで家光の正室となった孝子、そして秀忠の娘で秀頼の妻となった千姫などの墓がある徳川の菩提寺である。伝通院本堂裏の奥にあるこうした女性達の墓の居並ぶ様子は、黒ずんだ石碑の大きさや構えの立派さが過去の栄光を漂わせている反面、決して荒れ果ててはいないが、土の上に傾いた門柱が今にも土に埋もれ、忘れられていくようで、偉大さとはかなさを同時に感じる場所である。暫く眺めていると、その大きさと人の気配のないことがアジアの古代遺跡を草原の中に発見したような気分になってくる。


F5.礫川小学校前の木造住宅

 忽然と現れたと言うより、残ってしまったと言った方がいいような一軒の木造平屋住宅を見つけた。文京区で最も古い学校の一つである礫川小学校の前にあり、それほど古いものではないが、昭和のある時代の特徴をよく表しており、とても懐かしい感じがする。時代考証はしていないが、昭和5年頃の小石川区役所旧庁舎に似ており、最も忘れられやすい時代のものではなかろうかと思い、壊されるのが避けられそうもない建築だと思い写しておいた。


F6.慶喜さんの銀杏

 安藤坂、金剛寺坂等と平行に水道端から春日通りに登る新坂(今井坂)の途中に大蔵省の官舎がある。ここが最後の将軍・徳川慶喜が東京に戻って晩年を過ごした終焉の地である。慶喜は、後楽園のある水戸上屋敷で生まれ、慶応2年(1866)、15代将軍となる。翌年には大政を奉還し、静岡に蟄居する。明治30年(1897)、30年ぶりに東京に戻り、巣鴨に住んだ後、明治34年小石川のこの地に移り住む。大正2年(1913)11月22日、この地で逝去。享年76歳、上野寛永寺に葬られる。屋敷の玄関前にあった銀杏(大公孫樹)の木は、現在も自然形で慶喜の人柄を写すように伸び伸び育っている。


F7.猫股橋

 今はなき小石川はどんな川だったのか。比較的最近まで残っていた、どぶ川としての千川に想い出のある人はたくさんいるはずであるが、江戸の頃はどんな川であったろうか。D2の小石川植物園の項で、小石川とそれに架かる祇園橋の様子を描いた名所図絵を載せてあるが、とにかく田舎の水田風景が続く中をゆったりと流れていた川のように見える。さらに上流に有名な猫股橋と称する橋が架かっていた。現在、橋のあった場所に最後の橋の橋脚が記念として残されているが特に変わったものではない。この橋の何が気になるかというと名前である。「見けなした猫股橋はふたまたぎ」という川柳があって、有名な猫股橋に来てみると、ふたまたぎで渡れるようなちっぽけた橋だったと見けなしている歌である。『南向茶話』によれば、猫股は、根っこ股で、木の根の二股の部分を橋にした根木股橋であるという。『続江戸砂子』では、この辺に狸がいて夜な夜な赤手拭いを被って踊るという話があり、ある時、大塚あたりの道心者(少年僧)が葬式の帰りに夕暮れ時のススキ野の中に狸を見つけ、あわてて逃げる時に千川にはまった。そこから狸橋、猫狸橋、猫又橋といわれた。猫狸(ねこまた)は、妖怪の一種。江戸名所図絵にある長谷川雪旦の絵では猫股橋を渡る百姓と川辺で山芋を洗う女の、のどかで溌剌とした会話がいかにも聞こえてきそうで微笑ましい。
      左:最後の猫股橋の橋脚。右:正面奥に入り込む道路の下に暗渠化された千川が流れている。


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